呼子の捕鯨文化
2006年02月12日
なみログ at 14:44 | 地域
2006年2月12日(日)佐賀新聞朝刊30頁より
唐津市呼子が捕鯨基地として栄えたところだというのは、感覚的には理解できるが、実際のところはなにも知らない。多くの県民がそんなところではないだろうか。
そんな捕鯨に関する歴史、文化を掘り起こそうと、呼子町の住民グループが、「鯨組」というのを作り、捕鯨に関する資料の調査を始めている。その取り組みのひとつが、去年なみログでも紹介した、イベント、鯨セミナーであったようだ。
以前に、民俗学者の宮本常一氏に少しだけ触れたが、氏の著作に、「日本の村・海をひらいた人々」(ちくま文庫)という本があり、海をひらいた人々の章を読むと、捕鯨によって海を人が移動し、文化が伝えられてきたことが判りやすく書かれている。
例えば、長崎県五島の捕鯨技術の向上に、和歌山などの鯨組の存在があったとか、捕鯨に来た人々が、自分の故郷に帰らなくなって、その土地に住むようになって村ができたとか、そういう話が書かれている。
いまは、高速道路や、鉄道が日本全国を張り巡らしているし、飛行機で二点間移動をするような社会だが、交通網が陸地に発達していなかった頃は、多くの移動手段が船だった。船で移動するというのは、単純に二点間移動ではなくて、何箇所も港や漁村を経由しながら、移動する。
そこに交易が生まれたり文化の交流がある。
捕鯨文化の掘り起こしは、単なる鯨だけの問題ではなくて、そこに住む人々の歴史とそこに関わった、海を隔てていまも残る、別の土地との関わりあいまでもが明らかにされていくだろう。
唐津市呼子が捕鯨基地として栄えたところだというのは、感覚的には理解できるが、実際のところはなにも知らない。多くの県民がそんなところではないだろうか。
そんな捕鯨に関する歴史、文化を掘り起こそうと、呼子町の住民グループが、「鯨組」というのを作り、捕鯨に関する資料の調査を始めている。その取り組みのひとつが、去年なみログでも紹介した、イベント、鯨セミナーであったようだ。
以前に、民俗学者の宮本常一氏に少しだけ触れたが、氏の著作に、「日本の村・海をひらいた人々」(ちくま文庫)という本があり、海をひらいた人々の章を読むと、捕鯨によって海を人が移動し、文化が伝えられてきたことが判りやすく書かれている。
例えば、長崎県五島の捕鯨技術の向上に、和歌山などの鯨組の存在があったとか、捕鯨に来た人々が、自分の故郷に帰らなくなって、その土地に住むようになって村ができたとか、そういう話が書かれている。
いまは、高速道路や、鉄道が日本全国を張り巡らしているし、飛行機で二点間移動をするような社会だが、交通網が陸地に発達していなかった頃は、多くの移動手段が船だった。船で移動するというのは、単純に二点間移動ではなくて、何箇所も港や漁村を経由しながら、移動する。
そこに交易が生まれたり文化の交流がある。
捕鯨文化の掘り起こしは、単なる鯨だけの問題ではなくて、そこに住む人々の歴史とそこに関わった、海を隔てていまも残る、別の土地との関わりあいまでもが明らかにされていくだろう。
この記事へのコメント
呼子鯨組の坂本裕明と申します。色んな方から呼子の捕鯨の歴史を取り上げてもらえるのは、大変嬉しく思います。我々の活動の励みになりますし、今後とも宜しくお願い致します。この6月25日(日)は、長崎の諏訪神社の「鯨の潮吹き」山車を奉納される万屋町から当町の龍昌院(中尾甚六再建の寺)にお参りにお出でになります。この山車は、呼子の鯨組主中尾甚六が長崎逗留のおり地元に薦めたのが始まりです。歴史をひもとくと意外な事が発見出来ます。
Posted by 坂本裕明 at 2006年06月18日 09:28
坂本様コメントありがとうございます。
ちょうど、昨日でしたか、商業捕鯨に関するニュースが入りましたね。捕鯨に関する国際会議で、商業捕鯨の是非について商業捕鯨に賛成の国が過半数を上回ったと。
私はとくにどちらの立場など、言えた柄ではないですのですが、日本の文化形成には、捕鯨というのは切り離せないものだったと思います。
それもこれも、宮本常一氏の本を少しばかり読んだだけの関心なのですが・・
私はいまはネットの仕事をやることだけに集中している毎日ですが、もっと地域の風土や歴史を知る必要があるなあとつくづく感じます。
呼子へはイカの活き造りだけが目的で行っていましたが、鯨というキーワードで今夏は呼子に行ってみたいと思います。
これからもなみログをよろしくどうぞ。
Posted by なみ at 2006年06月20日 19:37